シリーズ全体を一つにまとめた「仁義なき戦い総集篇」はストーリーがブツ切れで、他人への説明が難しい件。

仁義なき戦いビギナーズ

コラム:総集編は説明できない

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総集編は説明できない

2012.07.23

中学生の時に「仁義なき戦い」五部作をほぼ公開と同時に観て、高校生になってからも何度も同じ映画を観に、映画館に通った。
当時の東映作品は、毎月、新作が公開(二本立てか三本立て)されていたような、今から考えると映画大量生産時代だったのだけれど、それでも人気の高いこのシリーズは、いろんな映画館でリバイバル上映がされていた。 今月はあっちの映画館で頂上作戦が上映され、来月には別の映画館で広島死闘篇が上映される、といった感じ。
さすがに何年も経つと、徐々にリバイバル上映される映画館が少なくなり、「今月、仁義を観よう」と思ったら市外まで足を伸ばさなきゃ、てなことになった (でも、再来月あたりには、またどこかでやったりする)。
ファンが数多くいるのは確かなんだけど、さすがに、みんな、もう何回も観てしまったんだろう。 上映中に、ここぞという場面では、観客の誰かがぼそっと次のセリフを言ってしまう、なんて普通の状態だった。
ぼく自身はと言うと、周囲の友人に仁義の面白さを吹聴して廻るのにも飽きてしまっていた頃で、映画以外にも楽しいことがいっぱいあることを知り始めていた。

そんな時、仁義なき戦い 大会と題された上映が始まった。 五部作全部を一挙に上映してしまう、という企画だ。
通常料金で五本もいっぺんに観れるんだから、こりゃ、たまらん。最高だ。
久しぶりに集まった仁義なきファンの男達は、誰もが、この上映会を楽しんだ。 拓ぼん(川谷拓三)がちょっと出てくるだけで客先には笑いが起きるし、金子信雄のセリフに手を叩く奴までいる始末。
受験勉強とは無縁だったぼくは、たぶん、オールナイト上映に行ったのだろうと思うが、その上映中の不思議な雰囲気(互いに名前も知らない観客の中に確かにあった連帯感・一体感)だけが心に残っている。

二十歳の時に、女性の友人から「仁義を観たい」と言われた。 その時に上映が始まった仁義なき戦い 総集篇を知ってのことだったのだろうと思う。
大会は五部作全部を上映するものだが、この総集篇は、深作監督自らが五部作を再編集したもので、三時間を超える大作。 物語のイイトコを抜粋して全体を短くしたものには、あまり興味を感じなかったのだが、初心者にはいいかもしれない。
女性客はいつもの仁義よりも多かったような気がする。
一緒に観ながら、時々、彼女が聞いてくる質問に、小声でぼくは答えた。
「あれは、菅原文太じゃない。まだ、主人公は出てきてない」
「梅宮辰夫は、元々、別の組にいたんだ」
「ジュンとホタルのお父さんは、金子信雄の腰巾着で…」

困った。
ただでさえ複雑な人間関係なのに、ここまでストーリーがブツ切りにされてたんじゃ、こりゃ、ついていけない。
極めつけは、同じ役者が作品によっては違う人物を演じていることだ。 五作品を一つにしているので、そのややこしさは大変なことになってしまっている。
「さっき死んだ、松方弘樹と、この目付きの悪い人は、別の人で…」
「梅宮辰夫もほら、最初に出てきたのとは眉毛の濃さが違うだろ…(こんなことは実際には言ってない)」
とにかく、一本の上映作品としては、成立していないのだ。
既にシリーズ全部を観たことのある人間が、場面場面を思い出すのにはいいかもしれないが、これを単独の作品として鑑賞するのは、初心者には絶対に無理な仕上がりになっていた。
そりゃそうだ、本編でも重要なストーリー展開部分が、ナレーションだけで済まされる場合もあるのに、そのナレーションが一部で省略されたんじゃ、さもありなんである。
ぼくが途中で黙りこくったのか、映画を観た後、どんな話を彼女としたのか記憶にはないけど、とにかく、すごく理不尽な思いはしたのだろう。

後で、深作監督自身が編集したわけでなく、実は監督自身も、この総集篇を観たことはないという事実を知った。
総集篇ポスターの一部切り抜き あのポスター、大嘘つきだ。
でもそうしたもので興行できるくらい、このシリーズの人気が高く、何度も映画館に足を運ぶ客がいた、ってーのも、今の時代じゃ考えられないなぁという気がする。
因みに、この総集篇は、VHS ビデオにもなっておらず、DVD 化もされていない。
今なら、もう一度観てみたい、とも思っているのだが…。