広島で実際に起こった一連の抗争事件が本シリーズの題材であり、その抗争を昔ばなし風にわかりやすく解説。

仁義なき戦いビギナーズ

広島抗争を昔話風に:史実をわかりやすく説明すると…

題材は一連の抗争事件でした

1950年頃から、1970年代前期まで広島で実際に起ったいくつかの事件が、シリーズ五部作の題材です。

それぞれの事件はその時々の当事者間の関係性や時代背景の中で起こったのですが、それらの底辺には、広島における覇権争いという一貫したテーマがあります。

広島抗争の核心となる部分、シリーズの第三作「代理戦争」と第四作「頂上作戦」のモデルとなった事件は以下の通りです。

1950年頃の広島における暴力勢力

岡敏夫さんが、戦後、広島市内で大きな勢力を握っていました。 岡敏夫さんは岡組という組織の親分です。
岡さんの弟である打越信夫さんは、岡組の勢力拡大に大きな貢献をした人で、自分で打越組を作っていました。 打越さんは周囲の誰からも、岡さんの後継者になるだろうと思われていました。 というのも岡さんは健康上の理由で、引退することが噂されていたからです。
岡組の子分の中では、網野光三郎さんや服部武さんが強かったです。

広島市の近郊都市である呉市では、山村辰雄さんの山村組が力を持っていました。
山村組には、佐々木哲彦さんや美能幸三さんといったイケイケの若者がいました。

打越さんは、自分が岡さんの後釜に座る(=岡組の次の親分になる)体制を盤石なものとするために、岡組の網野さんや服部武さん、山村組の佐々木さんや美能さんと兄弟になりました。 勢いのある弟分達を何人も自分の味方に付けて鼻高々でした。

神戸の大組織、山口組との関係

1961年、神戸の大組織である山口組の組長、田岡一雄さんとその子分山本健一さんが、美空ひばりさんの公演のために広島を訪れました。 山本さんは美能さんとは旧知の間柄です。
その時に、打越さんは美能さんを通じて、田岡さんと仲良くなりたいと言い、結果、田岡さんの弟である安原政雄さんと兄弟になることができました。 いずれは、正式に田岡さんの子分か弟にしてもらう、という気持ちがあったはずです。

このことを知った岡さんは怒りました。 当時の山口組は、全国のいろんな土地に勢力を拡大しており、多くの昔ながらの地元の組織が山口組に吸収されています。
打越さんが嫌いになった岡さんは、自分の後継者を山村辰雄さんとすることにしました。 自分の弟や子分を差し置いて、隣り町の呉市の山村さんを指名したのです。

山村さんは、呉から広島に出張り、大きな岡組の力を引き継ぎました。 この時点で、岡組は山村組へと吸収合併された形です。
服役していた岡組の幹部、原田昭三も加わりました。

打越さんをお兄さんとしていた、勢いのある若手の皆さんは少し複雑な気持ちになったかもしれませんが、新しい親分が山村さんになったのですから、それに従います。
呉の組織との合併で今まで以上に大きな組織になったことは悪いことではありません。
ところが、打越さんと安原さんが兄弟になることに助力した美能さんの立場はどうでしょう。
そして、実は山口組にしても、いずれ打越さんが広島の覇権を握ることを目論んでの安原さんとの兄弟の約束だったわけです。 広島で、打越さんの立場が弱くなることは、想定外のことでした。

代理戦争の始まり

広島市内で確固とした地盤を確保し続けたい打越さん。そして、それを目障りだと感じている山村さん。 二人の関係はピリピリしていました。
1962年の秋、打越さんは、憧れの田岡さんの弟となり、正式に山口組の傘下に入ることになりました。

山村組を仕切っていた服部さんは、山口組の広島進出をくい止めるためには別の大きな力が必要だと考え、これもやはり神戸にある組織、本多会と仲良くなることにしました。 本多会は山口組ととても仲が悪く、けんかばかりしていました。
すぐに山村さんは、本多会会長の本多仁介さんと兄弟になりました。

広島における打越会と山村組の争いは、全国規模で繰り広げられている山口組と本多会との「代理戦争」と呼ばれるようになりました。

この時点で、美能さんは既に山村組を抜け、打越会とタッグを組む形での参戦です。 一度は自分の親分だった山村さんや、かつて同じ打越さんを兄とした兄弟である服部さん達と戦うことになったわけです。
網野さんは、美能さんや打越さんとも仲がよく、とはいうものの服部さん達とも喧嘩したくなかったので、引退して、実業家になり成功しました。

始まりは一発の銃声から

1963年、美能さんの子分が、山村組の子分に射殺されました。ここからは本当の喧嘩です。
殴る蹴る、賭場荒らし、路上での銃撃戦、何でもありの戦いが始まりました。

若い頃、それなりにイケイケだった打越さんですが、この頃は何かと手際が悪く、判断が遅いせいで、打越会はやられっぱなし状態が続きました。
さすがに我慢できなくなった山口組は本格的に介入することになりました。
ダイナマイトを使っての襲撃もありました。神戸の山口組本部に爆弾が仕掛けられたりもしました。

山村組は、組織強化と警察からの横槍を避けるために政治結社「共政会」を名乗るようになりました。 初代会長は、あの、山村さんです。

警察介入による抗争の沈静化

市民からの声に後を押され、警察も事態の収拾に努めました。 警察は、双方の組織の長、幹部を微罪でも逮捕しまくりました。 司令塔が不在では、さすがに戦いを続けることが困難になりました。
警察が取ったこの方法は「頂上作戦」と呼ばれます。

山村さんは引退し、共政会と打越会の仲直り儀式が 1967年に行われました。 その翌日、打越さんも引退することと、打越会を解散することを警察署内で表明しました。

頂上作戦は功を奏し、喧嘩は一応収まりました。
とはいうものの、本当に収まったのでしょうか?

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